EVcafeで考える 第42回
by がす
2026年8月24日、スタンフォード大学で開かれた半導体業界の祭典「Hot Chips 2026」で、少し珍しいことが起きました。基調講演の壇上に立ったのが、NVIDIAでもインテルでもなく、ロボタクシーのWaymoだったのです。
登壇したのは、Waymoで13年間、車載計算基盤の開発を率いてきたダニエル・ローゼンバンド氏。彼は講演の冒頭で、こう切り出しました。「人間は2つの目だけで運転しているのに、なぜ車にはそれができないのかと、よく聞かれる」と。
名指しはしていません。しかし、この問いを世界で最も声高に主張してきたのが誰かは、会場の全員が知っています。イーロン・マスクです。テスラは「人間が視覚だけで運転できる以上、車もカメラとAIだけで十分。LiDARは松葉杖だ」という思想を10年間貫いてきました。
その思想に対して、Waymoが今回突きつけた回答が、自社設計のセンサーフュージョンチップ「carTPU」です。半導体の学会で、シリコンそのものを証拠として提出してきた。この記事では前後編に分けて、この発表が何を意味するのか、そしてその裏側でテスラに何が起きているのかを整理します。

1000TOPSの物量
まずチップの中身から。carTPUはTSMCの5nm車載プロセスで製造され、機械学習性能は1000TOPS(毎秒1000兆回の演算)を超えます。仕事は明確で、13台の高解像度カメラ、4基のLiDAR、レーダーから流れ込む生データを、ミリ秒単位の遅延で一つの空間認識に統合すること。暗所での時間軸ノイズ除去までチップ側で処理するので、夜の黒い服の歩行者のような「カメラが苦手な瞬間」を入り口の段階で潰しにいきます。
参考までに、テスラの現行車載チップAI4は報道ベースでおよそ100〜150TOPS、サムスンの7nmプロセス製です。単純比較はできません(carTPUはセンサー統合の前処理に特化した専用チップで、AI4は運転判断まで担う汎用チップです)が、センサーの入り口だけにテスラの車載計算全体の数倍以上を注ぎ込んでいる、という物量感は伝わると思います。
面白かったのは製造現場の話です。Waymoはこれまでインテル製FPGAでセンサー処理をしていたのを、専用シリコンに置き換えました。そしてフェニックスの炎天下に駐車された車内でこのチップを液冷で運用している。冷却液の温度は摂氏60度。データセンターの液冷とはまるで別世界の、過酷な環境設計です。将来的には1兆パラメータ級のAIモデルを車内で動かし、車載コンピュータ全体をノートPCサイズまで縮める構想まで語られました。

講演では協力企業としてTSMC、サムスン、NVIDIA、AMDと並んでマイクロンの名前も挙がっていました(株主としては、こういう場所で名前を拾ってもらえるのが地味に嬉しい。車載メモリはこれから確実に太る市場です)。
なぜWaymoは「そこまで」やるのか
正直に言うと、私はこの発表を最初に見たとき「過剰では」と思いました。大雨や大雪なら運行を止めればいい。人間のタクシーも電車も、危ない日は止まります。カメラが一瞬見えなくなる程度のことに、5nmの専用チップまで焼く必要があるのか。
それで、少し考えて気づきました。Waymoにとってこれは技術的趣味ではなく、会社の生存条件なのです。
理由は責任の構造にあります。テスラの現行FSDは「監視付き」で、事故が起きれば法的責任はハンドルの前の人間にあります。Waymoは運転席が空です。1件の重大事故が起きれば、責任は100パーセントWaymoに向かう。実際、GM傘下のCruiseは1件の人身事故をきっかけに全米で運行停止に追い込まれ、事実上退場しました。無人運行の世界では「99.9パーセント安全」では会社が潰れます。求められるのは99.9999パーセント。人間の運転なら許される「逆光で一瞬見えなかった」が、一度も許されない世界です。

そしてもう一つ、より根深い理由があります。AIは物理法則を知らない、という問題です。
ニューラルネットワークは膨大な動画から「ボールが転がると子供が飛び出しやすい」というパターン(相関)は完璧に学べます。しかし「物体は同じ空間に同時に存在できない」という因果のルールそのものは持っていません。だから動画生成AIが指6本の人間を描くのと同じ理屈で、運転AIも「対向車線を空きスペースだと幻覚する」可能性を構造的に排除できない。物理法則を数式としてAIに強制的に埋め込む研究(PINNsなど)は世界中で進んでいますが、AIの学習が滑らかな微分計算で成り立っているのに対し、衝突や摩擦は不連続なルールで、両者は水と油。実環境でリアルタイムに機能するレベルにはまだ達していません。
Waymoの出した答えは、この難問を解かないことでした。AIに物理を悟らせるのが困難なら、最初からLiDARで距離と形状を物理現象として実測すればいい。レーザーの反射が「そこに固い物体がある」と告げている限り、AIがすり抜けられると幻覚を見る余地はハードウェアの段階で塞がれます。carTPUは、その物理データを一滴も遅らせずAIに流し込むための配管です。工学的に見れば、実に筋の通った設計思想です。

スコアボードは残酷なほど一方的
その思想の成果が、現在の数字に出ています。Waymoは完全無人での走行距離が累計2億マイルを超え、事故率は人間ドライバーの13分の1程度と発表しています。週あたりの有料乗車は約50万回。車両は約3500台、展開は10都市圏。今年2月には160億ドルを調達し、評価額は1260億ドル。年末までに20都市超への拡大を掲げ、そのリストには東京とロンドンが入っています。
対するテスラ。オースティンのロボタクシーは、追跡サイトの集計で直近2週間の全170回がようやく安全監視員なしになりました。車両数は54台。同じオースティンでWaymoは250台以上を走らせています。テスラは9月3日にサイバーキャブの発表イベントを控えていますが(この読み方は前に書いた通りです)、「今日、無人で客を乗せて金を稼ぐ」という局地戦に限れば、勝敗はすでについています。Waymoの圧勝です。

それでも消えない、一つの疑問
ここで筆を置けば「堅実なWaymoが正しかった」という記事になります。しかし、それでは説明のつかないことが多すぎるのです。
テスラは自動運転を10年やってきました。物理世界をAIの脳内でシミュレートする「ワールドモデル」がブレイクスルーの鍵だと分かっていながら、本格的に舵を切ったのは2023年。なぜそんなに遅かったのか。答えを先に言うと、やらなかったのではなく、物理的にできなかったからです。そして舵を切ってから3年、目に見えるブレイクスルーがないまま、テスラは訓練用データセンターを倍々で増設し、次世代チップを2つのファウンドリで同時に焼き、投資額を兆円単位で積み増し続けています。
沼にはまった企業の悪あがきに見えるでしょうか。私はそう思いません。この賭けには、AI業界で最も検証された数理的な裏付けがあります。そしてその賭けの賞品は、もはやロボタクシーではありません。
後編では、テスラが3年間何と戦ってきたのか、なぜ「暴力的なまでの計算資源投資」が蛮勇ではないのか、そしてこの争いがWaymo対テスラという構図を超えて、アルファベット連合とマスク連合が半導体・電力・宇宙まで総動員する「アベンジャーズ級の総力戦」になっている全体像を書きます。Waymoが東京に来る前に(ちなみにテスト車を先日都内で見かけました)、読んでおいて損はない話です。
(後編に続く)


がす(来嶋 勇人)
福岡県出身。(株)ファミリーマートのマーケティング本部でアプリやコーヒーのパッケージを作っていたが早期退職。無職になりテスラでハローワークに通い見つけた会社に入社。そこでゼロからスタートし、そこの関連会社の社長に抜擢され就任。現在はECやアニメーション事業を行っている。

