EVcafeで考える 第45回
by がす
2026年9月1日、あなたの資産を守る演説が、G20の場でひっそり行われました。演者は、株主のことなど眼中にない男です。
米ノースカロライナ州チャペルヒル。G20イノベーション相会合にオンラインで現れたイーロン・マスクは、EUを「規制の水準が極めて高い」と名指しで批判しました。そして一言。「新しいものは原則として違法ではなく、原則として合法と考えなくてはならない」。
情報元の共同通信の記事はここまででした。これだけ読むと「マスクがまたEUに噛みついた」といういつものニュースに見えます。
違います。この日、水面下ではもっと面白いことが起きていました。そしてこの一言がなぜ「あなたの資産の防衛演説」なのか。順番にいきます。
中国が、アメリカの原則に署名した
この会合でホワイトハウス側は、各国に「カロライナ原則」の採用を提唱しました。中身を一言でいうと「AI専用の新しい法律を作るな。問題が起きたら、いまある法律で裁け」。マスクの「原則合法」を、外交文書の言葉に翻訳したものです。
驚くのはここからです。米政府高官によれば、この原則に中国も署名しました。
AI覇権をめぐってアメリカと殴り合っている当の相手が、です。半導体では血みどろの争いをしている米中が、「規制で技術を縛るのは愚策だ」という一点では握手した。取り残されたのはEUだけです。
しかもそのEU、実はもう折れています。去年、ASMLやミストラルAIといった欧州の看板企業45社以上が「AI法の施行を延期してくれ」と嘆願書を出しました。守られているはずの欧州チャンピオン自身が、保護を拒否したわけです。欧州委員会は一度「延期しない」と突っぱねたものの、数カ月後に自分から延期を提案し、AI法の本丸である高リスク規制はこの8月に始まるはずが2027年末まで先送りになりました。マスクが批判した「規制」は、城の主自身が工事を止めた城の残骸です。
それでも、マスクはわざわざG20の場で名指しした。なぜか。EUの規制思想が、テスラとスペースXの喉元に直接噛みついているからです。
テスラが噛まれている場所
アメリカのテスラオーナーがFSDで手放し通勤し、オースティンでロボタクシーが客を運んでいる間、欧州で起きたことを見てください。マスクが「まもなく欧州でFSDを出す」と言ったのは2022年です。そこから足掛け4年、18カ月の審査と160万km超の実走行テストを経て、この4月にやっとオランダが承認しました。それも「監視付き」限定で、承認した当局自身が「これは自動運転ではない」とわざわざ釘を刺す塩対応。現時点で使えるのは27カ国中わずか4カ国、EU全域への拡大には欧州委員会への申請と加盟国の投票がまだ残っています。ロボタクシーに至っては影も形もない。テスラの時価総額を支えているのがまさにこの部分だと考えると、4.5億人市場でのこの足踏みの痛みが分かります。

この日マスクが語った「ヒト型ロボットは10年後に10億台」も同じです。物理空間で自律的に動くロボットは、EUのAI法では「高リスクAI」の枠に入ります。オプティマスが世界中の工場や家庭に入っていく未来において、欧州だけ分厚い監査の壁が立つ。
スペースXが噛まれている場所
空でも同じことが起きています。EUは重要インフラを米企業に依存し過ぎることを警戒し、スターリンクに対抗する自前の衛星網IRIS²を推進中です。ロケットでも、ファルコン9の圧倒的な低コストを前にしながら、自前のアリアン6を守るための調達バリアを張る。技術で勝てない相手に、ルールと保護主義で時間を稼ぐ。AI法とまったく同じ構図です。
意図せず、株主を守っている男
マスクは株主のために戦ったことは、たぶん一度もありません。本人の頭にあるのは文明の進歩の速度であって、決算説明会で株主を喜ばせることには昔から驚くほど無頓着です。好決算の発表の直後に「テスラ株は高すぎる」とツイートして株価を落とした前科すらある男です。
ところが、です。テスラとスペースXの企業価値の中身は、工場でも車でもなく「速度」そのものです。誰よりも速く作り、誰よりも速くデータを集め、追いつかれる前に次へ行く。この速度を削るものが規制だとすれば、規制と戦うことはそのまま、株主の将来キャッシュフローを守ることと同じになります。
つまり9月1日にチャペルヒルで起きたのは、こういうことです。世界一、株主サービスをやらない男が、G20という世界一大きな舞台で、結果的に世界一の株主サービスをやった。本人は文明の話をしているつもりで、その一言一言が、FSDの欧州全面解禁を、オプティマスの販路を、スターリンクの空を守っている。
株主のために動く経営者は、いくらでもいます。ただ、株主のことなど眼中にないまま、戦う理由が完全に株主利益と一致してしまう経営者は、この男くらいです。私はこれを、株を持つ側にとって一番信用できる形だと思っています。忖度の株主サービスは景気で折れますが、信念は折れませんから。
「新しいものは原則として合法」。あの一言を聞いて、ホルダーの皆さんはニヤリとしていいと思います。あれはあなたのポートフォリオの防衛演説でもあったのです。

がす(来嶋 勇人)
福岡県出身。(株)ファミリーマートのマーケティング本部でアプリやコーヒーのパッケージを作っていたが早期退職。無職になりテスラでハローワークに通い見つけた会社に入社。そこでゼロからスタートし、そこの関連会社の社長に抜擢され就任。現在はECやアニメーション事業を行っている。

